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富勢古老の備忘録「今から千三百年前に開かれた布施村とは」

備忘録は、記憶すべき事柄を簡単にメモするための個人的な雑記帳である。


出展:「柏市史年表」「柏市史近代編」「楽しい事始め事典」写真は歴史アルバムかしわ」より
富勢(布施)地域と近郊より知りえた情報をもとに取材し、富勢古老の思い出語り部と関連資料から出展した。今回のテーマは、「布施村」である。

布施村とは

布施村が何時ころ開かれたかというと定かではないが、養老五年(721)に現在の布施付近と推定される。「意布郷」の一家族の戸籍が正倉院文書で確認できる。今から、およそ1300年前と推定される。

*「意布郷(おぶごう)」とは、古代の地名で、下総国相馬郡には、「大井、相馬、布佐、古溝、意部 (おぶ)、余戸(あまるべ)」の6つの郷があった。

布施村の年貢の支配について「富勢村誌」には、天正十八年(1850)に徳川氏領となった。慶長年間(1596~1614)に、高城下野守領から、旗本内藤四朗左衛門領へ、万治年間(1658~60)に、旗本天野左衛門領となる。元禄十四年(1701)に、本多伯耆守正永の所領となったと記されている。

享保十五年(1730)本多伯耆守正矩の時、上野国沼田城より駿河国田中城(静岡県藤枝市)に移ったが、布施村は明治維新まで本多氏領であった。布施村は、利根川の右岸に位置し、北側は流作場を挟んで利根川と接している。江戸時代には、下総国相馬郡に属していた。また、水戸街道の往還脇にあたり、七里ケ渡に布施河岸が置かれるなど、交通運輸上の要所であった。また、布施の弁天様があって、江戸中期繁栄を極め、面前町としての賑わいを呈したという。

七里ケ渡

この街道に七里ケ渡があり、柏市域で最も大きく重要な渡し場であった。坂の代表は、寺山の大坂(ディムサガ)で、小柳家前の坂をいう。寺山地区は門前町的性格が強く、特徴ある村落を形成している。戦前までは、油屋(アメ菓子、雑貨)、サワトウ(呉服)、中条(食料品)、田中(造り酒屋)、バッタ屋(トリ屋)などがあった。

「布施村」地名の由来

由来は、往古ここに布施屋(旅人の救護施設)が置かれたことによるが、地名の登場は大治五年(1130)に、平経繁が布施郷を伊勢皇大神宮に寄進した文章を、最初とする。

布施地区で一番古い家は

この村で古い家と言われているのは、布施後藤家である。系図によれば「元和元年大坂城落城後、布施村に止移す」と記されている。この後藤家に名主をしていた善右衛門、又右衛門の名が見られる。現在の当主は、歴代通算、三十代目の後藤敏氏。

沼田城主本多氏の飛領地だった

検地は天正二十年(1592)であり、近世初期は旗本内藤氏、天野氏と地頭が代わり、その後、沼田城主本多氏の飛領地となる。なお、本多氏はのち駿洲田中城主に転じるも明治維新まで領有する。


壬申戸籍について 出典:「柏のむかし」より

明治新政府は、中央集権国家の確立をめざし、諸制度の改革を手掛けた。その一つに、国を把握するための手段として、全国的に統一された戸籍の編成を実施した。これが壬申戸籍で、明治五年(1871)の干支(えと)にちなんで名付けられた。
この戸籍簿の大きな特色は、布施のような街道沿いの村は、東京に近い方から、一番、二番と言う順に屋敷番号を付けられた。これは、街道からはずれた村でも、わかりやすくするためと思われる。また、各家の戸籍の最後に、氏神と、祖先が葬られているお寺の名前も記されている。
しかし、現在の富勢小学校の前の通り、布施弁天に通じる道は、布施街道と言われ、往来が多く、その道筋は宿場町の役割を果たしており、旅籠や大工職、髪結い職などの仕事をしている家が多くあった。布施村は、二百二十五軒のうち四十軒がこうした職種と記録に残っており、市域中で最も特色のあった村と言える。
各戸籍簿を見ると、その村特有の名字が二つ三つある。布施の後藤家、成島家、逆井の日暮家、花野井の松丸、平川、吉田、名戸ケ谷の薮崎、木村が主なもの。

明治七年(1874)頃 各村の人口と戸数
①布施:1435人 221戸 ②根 戸:617人 101戸 ③久寺家:300人  45戸 ④宿連寺:179人 30戸

六つで成り立つ「布施地区」

布施地区は、6つの地区から成り立っている。古谷、新田、新屋敷、荒屋敷、寺山、土谷津の坪からなっている。村内には、神社は香取神社、八坂神社がある。寺は、東海寺、円性寺、南龍寺、善照寺の4つの寺である。また、布施のリョウは、寺山に薬師堂があり、この薬師さんは、現在東海寺の下に移されている。古谷には、原の観音堂がある。

学校関係は、明治六年(1873)に布施南龍寺を仮校舎として「天眞学校」が開校している。(教員1名、生徒32名)。翌七年に、公立布施小学校と改称された。その後、根戸尋常小学校と合併し、富勢尋常小学校になる。

布施の青年団、婦人会、子供会

布施地区の青年団は、戦前はお祭りや信仰などに参加した。また、戦時中は出征兵士を送り、村の共同作業に従事した。戦後は廃止された。
婦人会は、寺山で農協婦人部と若妻会(小・中学校の子供のいるお母さん)がある。以前は愛国婦人会、三夜講があったという。古谷は、婦人会がある。

子供会は、現在の幼稚園の上級生から中学生ごろまでの地区、町会ごとに組織化されていた。規約はなく、平常の遊びの中で集団が生まれ、一つの行事の中で友達活動ができ、組織化されている。

布施のこどもの遊び「天神講」

どこの地区の話を聞いても、天神講(おこも)の行事などにより、神社、寺社、個人宅の所の子供が集まり、遊び方、生活習慣、村の生活慣行、勉強などを集団生活の中で教えられる。費用については、自己負担で行う所もあるが、子供たちに自主的運営を主体に大人は表面にでないで、側面より協力している。

布施の迷信、冠婚葬祭

迷信は、卯の日、丑の日の田植えはしない。丑の日はモチ米を植えない。きゅうりを植えると不幸がある。トウモロコシをつくらない家もある。休みの日に働く人を「ものぐさ節句働き」といった。
布施地区の孫抱きは、オビトキ、祝言、葬式などの冠婚葬祭の時に集まる。葬式の時に八千ヅキアイ(村の親戚は米二升)がある。親が死ぬと子供は赤飯1駄持参する。つきあいは、ムラ内では永久につきあう。

布施の遊び

遊び場所は、長屋門の下やお寺、神社の庭が主な場所で、雨天以外は、ほとんど外でやった。

男子の遊びは、竹馬、ベーゴマ、パー(ブッケンという)、ネンボー、鬼ごっこなど。女の子は、おはじき、お手玉、マリツキ、色かくし、アヤトリ、カゴメカゴメなど。石ケリは男女ともやった。
また、天神講も遊びと捉えていた。小学3年生から、6年生までの男の子とオハリッコと呼ばれる女子がした。1月24日~25日の行事で、宿に一泊しながら、持参したお米で醤油メシを食べ、その他カルメヤキなどで遊んだという。しかし、オハリッコは昼間のみ参加で、宿には泊まらなかった。

富勢地域の店・住居を昔は屋号で呼んでいた(資料提供:寺山の坂巻孝さん)

①市左ェ門(いちぜむ)根戸/②二左衛門(にぜむ)新屋敷/②仁平(にへい)布施/③三左衛門(さんぜむ)土谷津/④四郎左ェ門(しろざえもん)古谷/⑤五郎兵衛(ごろべい)布施/⑥六衛門(ろくえむ)寺山/⑦七衛門(しちえむ)新屋敷/⑧八左衛門(はちぜむ)古谷/⑨九兵衛(きゅうべい)新屋敷/⑩十兵衛(じゅうべい)土谷津/十一家(じゅういちや)寺山 /⑪一郎兵衛(いちろべえ)根戸

また、戸籍上、同姓が多かった。たとえば、坂巻、飯田、野口、成島、鈴木、島田、後藤、関根、日暮、小柳、長妻、寺田、神戸、中村姓が大多数を占めていた。それらの家には、全て屋号がついていた。

今では、殆どが屋号で訪ねるのも難しくなった。でも、上記の家を訪ねる時、同姓が多いため、屋号を言わないと、目的の家にはたどりつけません。まだまだ、地元のお年寄りは、屋号で呼んでいるみたいですね。

水戸天狗党と軍資金徴収のこと

大鳥圭介や土方歳三が、数千もの軍勢を引き連れ会津で再起を図るために、布施村を訪れるわずか数年前から、幕末の嵐は、布施村にも吹き荒れていた。彼らのために宿を提供した、元橋本屋旅館の七代目坂巻孝当主が語るところによると、「元治元年(1864)3月、水戸天狗党72名宿泊す」の石塔が、天狗の面とともに、元旅館の中庭にあるという。
水戸天狗党は、水戸藩の純粋な尊王攘夷派で構成され、元治元年筑波山で決起する。そして、軍資金と兵糧を調達するため、常陸はもとより下総・武蔵・下野などに食指を伸ばし、本物、かたりが入り乱れて、乱暴狼藉を始めている。当然、当時繁栄していた北相馬郡内の花野井村、布施村、高柳村等にもその嵐は及んでくる。

事実、花野井村の松丸家では、1500両を無心されたが400両にまけてもらい、吉田甚左衛門家では、300両を支払っている。布施村では後藤七郎左衛門が多額の軍用金を提供している。
また、高柳村の名主酒巻孫右衛門家には、天狗党を名乗る3人の武士が来て、12俵の兵糧を布施村の後藤山(確かな場所は不明)に運ぶように命じ、翌朝そこへ言われたとおり兵糧を届けたところ、そこには誰もいなかったという話も伝わっている。

こうした事態に対し、6月幕府は水戸天狗党追討令を出し、領主であった本多田中藩は、兵を布施弁天東海寺へ交代にて出役させ、更には徳川親藩の関宿藩は渡船警護として、七里ケ渡や取手の渡にも出兵し、この近辺は実に物騒な状況を迎えていたのである。幸い、この近辺では大きな騒動は起きていないが、布施弁天の宿場に住む宿の人たちにとっては、気が休まらない幕末であったと思われる。

 成島京子氏の思い出語り:「戦前、戦中、戦後体験談」

「広辞苑」で「手記」を引いてみると、まず、自分で記すこと。また、そのもの。自筆。自書。体験したことなどを、みずから書き綴ったもの。~を残すとある。

今回の記事は、布施初の代議士・成島魏一郎氏のお孫さんにあたる、成島京子さんの戦前・戦中・戦後の体験談を、富勢ふるさと協議会への投稿から、掲載したものである。(出典:「成島京子さんの体験談:富勢ふるさと協議会への投稿」より)

布施城跡(ウィングホール入り口)
現在の和田沼の様子
柏市立柏病院(元陸軍病院)
①富勢地区の成り立ち

南北朝時代(1300年代)戦いに敗れた京都の公家出身の成島と名乗る人が自分の領地であった上州館林よりもっと温暖な平地を求めて視察に出た。たまたま布施の地が気に入り、家来として連れてきた平野(現古谷)氏と共にこの地に居をかまえる。
以来、成島家は明治の新政府ができるまで名字帯刀を許され、近隣38ケ村の名主を務めた。富勢は水戸街道の裏街道として人や荷物の往来が多かった。また、布施弁天が出来てから、江戸からの参拝人も多くなり、寺山坂下に旅館や料理屋ができた。利根遊水地(旧和田沼)にはうなぎ・鯉・鮒等がいつでもとれた。

②富勢(ふせ)地区とは

今の富勢地区は布施村と根戸村が明治になって合併して誕生した。布施村は南北朝後人が住み、根戸村は水戸街道ができたことにより、人が住むようになった。そのため根戸地区は江戸に近い方から、上・中・下とだんだん人が増えた順に集落ができた。布施新田、根戸新田は近世になって新田がつくられ田畑の近くに人が住み、集落となっていった。

③富勢(とみせ)と呼ぶようになったのは・・・

柏市と合併をする時である。布施村と根戸村が合併した時、布施地区の方が人口が多かったので布施村のままでいいという意見が多かったが根戸地区の人の反対があり、字を変えて富む勢と書き、呼び方を「ふせ村」とした。柏と合併の際、ふせは手賀沼の布瀬とまぎらわしいということで「とみせ」と読ませることとなった。合併前は富勢村布施(ふせむらふせ)だった。

④古谷地区に城があった

柏市の火葬場のある高台を城山といい、古谷地区に御城、中城という屋号の家がある。館と言う程度のもので、成島一族、平野一族(平野は分家をつくらなかった)が住んだのでしょう。

⑤坂東太郎の異名をもった利根川

ダムというものが無かった昔、利根川上流で大雨が降ると、今の寺山坂下や古谷の下の家はその都度水に襲われた。外の堤防が我孫子の常磐線の鉄橋の近くで切れているのは、完全にふさいでしまうと戸頭地区(取手)が洪水になるので遊水地が必要だったからである。
遊水地が干拓された後の10年位は、上流で大雨が降ると我孫子で口を開けている場所からいろいろな物が流れてきた。また、遊水地にはまこもが生い茂り、農家は小舟でこのまこもを刈り取り、牛の飼料とした。

⑥鴨や雁の飛来地だった遊水池

一面に水草が生い茂る11月から3月頃まで鴨、雁等の水鳥が飛来した。禁猟区に指定され、富勢で2名だけ網による猟が許されていた。
夕方、鴨が帰ってきて静かになった頃、小舟で近づき四本の竹竿を立て上に網を張り、あんかを抱え布団をかぶって夜明けを待った。夜がしらむと鴨たちは一斉に飛び立ち、そのうち何羽かが網に首を突っ込み羽をばたばたさせると、その網に鈴がついていて、目を覚まし、鴨を生け捕りにした。干拓された後も鴨たちは越冬しに来たが、旧十余二の飛行場に米軍が進駐していた頃、休日になると鉄砲を持って鴨打ちに来たので次第に他の地に移ってしまい、2年位後は一羽もこなくなった。

鴨の羽毛は掛け布団に、内臓は腸をしごいて砂を出し、食べる。無数にある卵は、黄身だけ食べるのが最高の楽しみ。骨はたたいて細かくし、粉を混ぜて団子にし、ねぎと煮て食べる。大きな羽(翼)はブラシとして使った。 布施地区の人々は未明に一斉に飛び立つ羽音で目を覚まし、一日が始まり、営巣地へ帰って来る群の鳴き声を聞き「雁がけえって(帰って)きたから、おらんたちもけんべえ(帰ろう)」といって家路についたものです。子供達がいつまでも外で遊んでいると「はあ、雁もけえってきただよ、はよ、けえれ」とどなられた。

⑦鮭が遡上した利根川

冬の渇水期には背鰭が見えるほど浅く群れをなして本能のまま、ひたすら上流をめざす鮭でいっぱいだった。布施下あたりに来た頃、筋子として食べるのに丁度よい育ち具合だったので、これを網で捕らえ、身はもちろんのこと、生筋子を塩つけや味噌つけにして食べた。正月には最高の酒の肴だった。

⑧干拓に従事した人々

富勢の人は無論、近隣の町村の青年団、婦人会などが狩り出され、それでも人手が足りず、早稲田の学生、東京の料理業組合の人々が毎朝、上野から我孫子まで汽車で、そのあと7~8kmの道のりを鍬を担いで通ってきた。昼食は婦人会が炊き出しをして届けた。
また、茨城県内原にあった満豪開拓義勇軍の若者達が富小の講堂に寝泊りし干拓に力をいれた。この人々が持ってきたトラクターや農機具に村民は目を奪われた。

⑨軍都富勢といわれた頃

市立病院の前身が畑の中に陸軍病院として造られた。小学校5年の時、何回か友達と庭に咲いている花を持って慰問にいった。続いて、今の高野台に歩兵部隊と工兵部隊がつくられた。
あの一帯は県道沿いに一面の松林で、根戸の丁字路から布施入口まで片側は松林、片方は畑で、夕方になると気味が悪く歩いては通れませんでした。

戦争末期30歳を過ぎた中年が召集され、3ケ月の訓練で戦地へ連れていかれた。どんどん召集されるので、寝る場所も食料も足らなくなり、農家に分宿し、朝夕は宿で食べてもらった。私たちは野菜中心でも味噌汁やご飯を腹一杯食べてもらった。子供心に「ああ、戦争は負けるな」と思いました。

⑩高野台地区ができた

昭和13年頃、一面の松林だった現高野台地区に歩兵部隊と高射砲連隊がつくられた。戦争末期、毎晩アメリカのB29爆撃機が東京を空襲し房総半島へぬける帰り道だった。そのため、夜は竹林の下に堀った、防空壕で過ごした。
冬は寒いので藁を敷き、その上にむしろを敷き、その上に布団を敷き、あんかを抱えて、夜のしらむのを待ちました。B29は帰途は利根川が白く光るのを目印に洋上の母艦を目指したと聞きました。

毎晩やってくるB29に対し、十余二の飛行場から戦闘機が飛び立ち、高野台の高射砲がうなりをあげるのを聞きながら過ごしました。時々、壕から顔をだして、東京の方角に目をやると夜空が真っ赤になっていた。翌朝は風向きによって焼けた本だった紙が飛んできました。